ジョン万次郎
ヤポネシアから歩いて3分のところに、大度海岸があります。
ここは、沖縄でも残り少なくなった天然の海岸です。
奇麗な珊瑚や生きものたちが生息していて、ダイビングやシュノーケリングのスポットになっています。
夏にはウミガメが産卵をしに来ることでも知られています。
この大度海岸は、ジョン万次郎がアメリカから帰国の際に上陸した場所でもあり、「ジョンマンビーチ」という別名を持ちます。
(当時は小渡という地名だったのを「大きく発展するように」と、のちに大度に改名したそうです)
ジョン万次郎は幕末・鎖国時代の土佐の漁師の次男で、1841年、14歳のときに漁の手伝いで海に出て遭難し、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されました。当時はまだ石油ではなくクジラの脂を燃料にしていた時代で、ジョン・ハウランド号もその油用の捕鯨船でした。この船名を取って、万次郎はジョン・マンと呼ばれるようになりました。
鎖国の日本では、海外からの帰国者は漂流者であっても処刑されることになっていたので、簡単に日本には戻れません。万次郎はアメリカで暮らし、教育を受け(彼は日本人初の米国留学生ともいわれています)学問や技術、英語などを身につけました。捕鯨船で3年4か月の洋上生活をを送りましたが、その際にも沖縄へ立ち寄った可能性もあるそうです(そのときは追い返されてしまった)。10年間アメリカで過ごしましたがやはり国が恋しく、ゴールドラッシュの西海岸へで旅費を稼ぎ、帰国の途につきました。
安全のために上陸地を当時独立国であった琉球にしました。始めは言葉も通じませんでしたが(当時は土佐弁と沖縄口では外国語のようなものでした)、大度の人たちは温かく彼を迎え入れました。
当時琉球国を支配していた薩摩藩により取り調べを受け、現在の豊見城市翁長の高安家で半年間拘束されるも、住民とは仲良く交流して暮らしました。大綱引きやハーレーも楽しんだことでしょう。
遭難から10年、ようやく帰国した万次郎ですが、鹿児島、長崎、土佐で取り調べを受け、実家に戻ったのはそれからさらに1年以上あとのことでした。
漁師からサムライに出世した万次郎は教師となり、坂本龍馬なども教えたそうです。
開国にあたっては江戸幕府から役人として登用され、勝海舟や福沢諭吉らとともに大きな役割を果たしました。
万次郎は、成功を収め裕福になってからでも、庶民を同じ人間、兄弟として接したそうです。沖縄で親切にされた経験から、肝心(ちむぐくる)が彼に染み付いていたのでしょう。
11月17、18日に行われた「シマおこし研修交流会」の第二分科会〜ジョン万次郎が辿った宿道を訪ねるツアー〜に参加し、身近にいながらこれまで知らなかった万次郎のことを知ることができて、愛着が湧きました。
ガイドしてくださった神谷良昌さん(「琉球に上陸したジョン万次郎」の原案者、英訳者でもあります)はじめ糸満市民ガイド友の会の井上さん、西川さん、とよみ史跡友の会の新里さん、ありがとうございました!
「この万次郎の絵のモデルは私なんです」と神谷さん
沖縄に滞在したのはわずか半年でしたが、万次郎が滞在した豊見城市の高安家と彼の子孫の土佐清水市の中濱家は、現在でも交流が続いているそうです(両市は姉妹都市)。万次郎がアメリカで滞在したマサチューセッツ州フェアヘーブン市などと土佐清水市も姉妹都市で、当時から150年以上経つ今でも、万次郎のつないだ縁が続いています。
ヤポの近所(しょーこの保育所のすぐそば)にある米須馬場にも万次郎は寄り、米須のJA跡地真壁のJAは当時番所で、ここも辿りました。
万次郎は県道7号線沿いの報得橋(当時の石造りの橋が復元されています)も渡りました。
ジョン万次郎が沖縄で辿った道のりをあなたも巡ってみませんか?
ヤポネシアがご案内します。
参考文献:「琉球に上陸したジョン万次郎」(沖縄タイムス社)
(コースケ)
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